たった一人のテリトリーきっと一人でメランコリー

<2ちゃんにて批評依頼中>


 一瞬視界が真っ白になったかと思ったら次々にフラッシュがたかれた。鬱陶しい光線は途切れることなく照りつけ、容赦なく身体を射抜く。君達は僕をフラッシュ焼きにでもするつもりなのかい、と叫びたくなるほどに。ああ……もう本当に鬱陶しい。鬱陶しいの最上級。
 そう思ったのもつかの間、凶暴な目覚まし時計二匹が鼓膜に噛み付いてきて、僕を夢から引き戻した。そして現実と言う牙が今度は心に噛み付いてくる。
 あぁ……少しずつ脳が解凍されていくのがわかる。幼稚な夢の果ては残酷なイミテーション。
 朝から自棄だ。夢のくだらなさに――しかも自分が見ていたっていうオプションつき――目から汗が出そうになり、グッと堪える。意識的に汗を止められるなんて、僕がどれほど暑い地域の民族かなんて議論が起こりそうだけれど、気にしない。
 もう。本当、何なんだよ、この低俗な夢オチは。こんなの、僕には相応しくない。
  悪夢の元凶である日光を睨もうとしたけれど、目の奥に山葵を食べた時みたいな痛みが奔る。なかなかやるじゃないか。嗚呼、今度は、僕がドラキュラかという議論が起こるかもしれない。
 のろのろと上体を起こすが、まだベッドから出る気にはなれそうもない。親譲りの低血圧のおかげで朝が苦手なのは毎度のこと。
 薄黄色に汚れたカーテンにプリントされた熊のトリオが、憎たらしいほどの笑顔で僕を見つめてくる。丁度半円を描くような口の形がどこか悪魔的にさえ見える。もしあんな口の形をした生物に出会ったなら、僕は間違いなく『にげる』のコマンドを選ぶだろう。『囲まれた!逃げられない!』とかいうのは反則だ。
 美貌に見惚れてしまったのだろうか、例の熊はまだ僕を見てくる。もう朝からそんなに見つめないで、なぁんて……。

 小さな溜息に、夢で良かったという八割の安堵と、やっぱり夢だったという一割の寂しさを乗せ、排出する。あと一割のマゾスティックな感情は、煙草の煙の如く肺に溜まったままだ。多分肺がんの原因にはならないと思うけれど。
 どうせいつもそう……。フラッシュをたかれるなんて夢の中だけだし、僕を笑顔でみつめてくるものと言えば実際いたら気色悪い熊だけなんだ。花も恥らう十七歳のオトメだというのに、全くもう。
 春の朝は、春の幕開けの臭いがする。
 そして、春はいつも奪っていく――容赦なく、無遠慮に。
 家族? 仲のいいダチ? 愛と勇気?
 くだらない。
 奴に奪われるのは正気、まともな精神。ネジが緩み外れては、ボルトが錆び外れては、僕はどんどんズレてきている、ような気がする。正常なんていう曖昧な概念を定義する気は更々無いけれど、主観的に見て自分が危ないというのは、精神衛生によろしくない。
 でも、自覚があるというのはある意味、正常すぎるという異常なのかもしれない。

 その時だった。丁度、その時。
 『煩い』
 という声が部屋に響いた。
 スローモーションをかけたようなその呟きは蚊の羽音ほど小さなもので、そして、僕の思考を崩壊させるのには十分すぎる音量だった。
 
 僕は、溺れもがいた。脳という底なし沼に散らばった言語に変換できない支離滅裂な思考の欠片の中を、必死に。
 
意識は桜色した粘膜で周りを覆われ、手を突っ込もうとすると拒まれる。それでも掴もうとすると、その粘膜が指にまとわりつき取れなくなる。
 
 煩い……煩い……煩い……

 声は少しずつ音量とピッチを増しながら繰り返される。

 煩い、煩い、煩い、……

 耳を塞いでも直接脳を振るわせる耳障りな不協和音。

 煩い煩い煩い煩い煩い……

 癪に障る甲高い声。

 煩うるさ煩いいうるさうるさい

 輪郭なんて無い。幾重にも重なりこだまし呟き叫ぶ音。それが最高潮に達したとき、それはピタリと消えた。言葉どおり跡形も無く、消えた。


 気がついたとき、僕は相変わらずベッドの上だったのだけれど、変化があったのは僕の右手が真っ赤に染まっていたということだった。手首に無秩序についた傷からは生々しく鉄の臭いが放たれている。そう生き物の、匂いが。
 脈打つ度に痛みが駆け上がってくるけれど、それよりも左手の指輪が汚れてしまったことが気になるくらいだから、死にはしないだろう。これだけ出ちゃうとカモフラージュするのが大変だよ、と鼻で笑ったくらい。
 でも僕の自嘲気味の笑みは、すぐに崩れ消え去った。
 無い。
 無いのだ。
 どこにも。
 カッターはおろか、鋏さえ。
 血の飛び散り具合を見れば、ベッドの上で切ったことは明白。なのに、どこにも凶器が無い。
 え? え?
 僕は慌てて部屋を見渡す。自分以外が傷つけたという可能性は、限りなくゼロに近い。しかしそれでも、と考えてしまうと恐怖はどんどん加速しだす。これは、もしかするかもしれない。
 一見したところ異常は無かった。勉強机の上に倒れている飲みっぱなしのオロナミンCのビンが切ないだけ。僕はぜんぜん元気ハツラツじゃない。
 いや、そんなことはどうでもいいから。現実逃避に入ろうとする自分を制する。
 まず考えられるのは、誰かが進入して切っていったということ。これなら声の辻褄も、合わなくも無い。いや、自分で切って、ちゃんと凶器を元の場所に戻したのかもしれない。もしかしたら、これも夢なんじゃないか……?
 それらを十分の一秒で考えては即却下する。だんだん危ない思考になるのは、認めたくないからだろうか。
 きっと空気が悪いんだ、とも思ってみる。爽やかな風を入れよう。
 そっと起き上がり、まずはベッド下を確認。幸いになことに斧を持った男も時空の歪もなかったので胸を撫で下ろすが、溜まった埃が朝の瞳にダメージを与えてくる。
 一応、と机の引き出しを開けてみるけれど、白い持ち手のカッターには、全くといって良いほど血痕が残っていなかった。
 建付けの悪い窓をゆっくり開けると冷たい風が頬を撫で上げ、頭が冴えてくる気がする。凛とした空気がなんとも皮膚に心地よい。
 テレビでお馴染みの人工的なものではない、リアルなあの声が風の音だとは、到底思えない。でも、きっと風の音だったに違いない、そう自己暗示を掛ける。
 カッターだって、錯乱状態の中律儀にもカッターを洗ってもとに戻したんだ。僕は、諦めない。何においても、思い込みほど強いものがないことを僕は知っている。
 窓から見おろす景色は至ってまともである。お腹の出たおじさんがリードをひっぱる、彼と似たような出で立ちのブルドッグが見つめる土筆の脇を流れる小川に落ちた桜の花弁の皺にさえ狂気のきの字も隠れていない。
 このいかれたストーリーが僕の脳の素敵な産物だということは認めたくない。というか、断じて認めないし。だけども、他の人に切られた、なんていうのも嫌だ。全く、やれやれだ。
 こういうとき、みんなはどうしているんだろうか。いや、これは正確ではない。「こういうとき」がある人はみんなに含まないというのが社会の暗黙のルールだということくらい知っている。
 大きく、静かに、そして後味悪く残ったマゾスティックな感情を潰すように、酸素を肺に入れる。肺胞が破裂しませんように、と祈りながら。
 どうしてだろう。家の前を通るとき、あのおじさんが凄い顔をして振り返ってきた。お腹に、顎に、そしてあのブルドッグのお尻についた贅肉が、僕の目でも確認できるくらい大きくたぷぅんと揺れる。視線が絡むか絡まないか……僕は慌てて顔を引っ込めた。
 
 僕はときどき、自分でも悪趣味だな、と思うことがある。例えば、今みたいに怪我をしたときの傷と表情を撮るとき。元々は母がやっていたことだが、今も自分でやっているのだ。もちろん現像なんてできないからカメラは携帯電話に附いているものを使う。
 さぁ、まずは右手の写真。左手でカメラを構えることはなかなか難しく、三度目でようやく良い感じに撮れた。
 そして、僕は次に顔写真を撮ったのだった。
 「は? あー……」画像を見たとき、思わずそんな声が漏れた。理由は簡単、僕の顔に大分血がついていたから。おそらく右手の血がついたものだと思われるが、これならおじさんも驚く筈だ。

 今、こうして部屋の端っこ、壁と机の間の僅かなスペースで膝を抱えて座っている僕は、きっとすごく惨めな奴に映るんだろうな。相当負のエネルギーを放出しているに違いない。右手も血濡れだし。
 そうしているのもつかの間体に力をいれたのは、半開きのドアに薄っすらと影が映ったからだった。唾が食道を通って落ちていく。鳥肌がたった二の腕の感触にますます震えそうになる。
 しかしそんな緊張感とは反対に、そこにいたのは我が家のペットだった。頭かくして耳隠さずの状態の彼に、僕は不機嫌に言う。
 「レオ、まだ飯の時間じゃないよ」
 しかし紫色した感情も血も猫には通じないらしく、何食わぬ顔して近づいてくる。
 無遠慮に僕の横に据わると、レオは壁に面していな僕の左手の小指を甘咬みするように見せかけて本気で咬むというカウンタートラップを発動してきた。
 「痛っ」一体誰に似たらこういうことをすうのだろうか。
 レオは僕の生まれる前からこの家に居るらというから、かなりの高齢であることは間違いない。そろそろ化け猫の域なんじゃないかと僕は睨んでいるのだが、正確な年齢は知らない。
 僕と同じ闇の色をした体毛を彼に傷つけられた手でゆっくり撫でてやるけれど、彼は振り向いただけで、いじらしい声を出すといったことをしなかった。いつもそう。影との境界線が曖昧になりながらも孤独に浮き上がる底なし沼の瞳で苦しい程に僕を射抜いては、逸らす。こういう可愛げのないところが可愛く思える僕は、レオと同じくらいひねくれ者かもしれない。

 窓は、透きとおっているように見えて汚い空に向かって開け放たれたままである。ティッシュペーパーよりも薄い雲が風に流れては、窓枠から逃げていく。
 その窓から、蝶々は部屋に侵入してきたのだった。
 「あ、蝶々。ほらレオ、あそこ」僕の指が差す方には、柔らかな曲線を描きながら浮かぶ雲色した蝶々がいた。風に導かれたのだろうか、か細い翅で飛ぶそれは四月の使者にも見える。
 白い翅は、僕が当の昔に投げ捨てた明かりを纏い、日光を素直に反射させている。まるで、闇なんて知らないとでも言いた気に、見せつける様に。どいつもこいつも自慢しやがって。
 「いいよなぁ」呟きが聞こえたのだろうか、レオは僕の太腿の上に座ると微かに喉を鳴らした。
 イエスか、ノーか。そんなのどうでもいいじゃない。僕とレオがどうあがいたって空を飛べないのと同じくらい、僕とレオがあの蝶々になれないのはわかりきったこと。そしてそれ以外は、お互い何もわかっちゃいないんだから。
 急に部屋の中の明度が落ちたのは、太陽に雲がかかったからだろうか――なんとまあ、春の天気は天邪鬼なこと。
 部屋中から俄かに熱が失せ、色褪せた写真と同じ、平面的な世界が生まれる。広がるのは、モノトーンで密封された景色。
 元々日陰に居た僕らと違っていきなり陰に覆われた蝶々は、光りを求めて飛び回る。蛾と変わらないじゃないか、と思ったけれど、やっぱり蝶々の方が綺麗だ。
 こうして、四畳半の部屋の中、一人、一匹、一頭と、正体不明のあと一人。みんな不平等に陰り、死んでいく。
 命が平等なんて教えたのは誰ですか? そんな毒林檎よりも真っ赤な嘘を教えたのは。僕は、小さな子どもを見る度に、騙されるなよ、って口の中がむず痒くなる。
 四月の使者は踊り疲れたのだろう、僕らの前に翅を下ろすと、小さく一度体を震わせたきりだった。そこにはもう春独特のむせ返るような眩しい生命力なんてものはなくて、ただ死に向かって生きる小さな命が霞んでいるだけだった。
 あんなにも自由に、あんなにも美しく、あんなにも遠い世界で翅を広げていたというのに、堕ちてきた。
 なんてまあ、儚い。
 なんてまあ、脆弱な。
 カーテンが揺れると、直後に強い風が部屋に侵入してきた。揺れで変形した熊のプリントはさっきよりもさらに奇怪な顔立ちで愉快な程。なびいて乱れる髪を、風が収まる数秒間軽く押さえていたけれども、ともと寝癖頭の僕に果たして意味があったのかは定かじゃない。
 蝶々は引きずられるようにして風に動かされていたが、レオの前足がそれを止めた。

 風が、凪ぐ。
 と、彼は
 毒林檎の舌で口元を1舐めすると
 気持ち良いほど躊躇い無く、
 その尖った爪で
 あの小さな
 あの白い身体に
 メスを入れた
 あっ気なく四枚に解体された蝶々の翅はやっぱりあっけなく舞いあがり、一枚が左の膝小僧に柔らかく落ちた。くすぐったい感覚と軽すぎる重さが、逆に重い。綺麗過ぎる翅を汚いものでも触るみたいに指端で持ってはみるけれど、その先どうすればいいんだろう。まだ両眼に華麗に舞う姿が焼き付いているというのに、その欠片を一体どうしろと。レオは、そんな僕をただただ見ているだけ。沈ませるような、這い出せない、氷点下の眼差しで。
 僕は通りに人がいないか確認すると、開けっぱなしの窓から翅を捨てた。どうか土に返ってくれるようにと願いながら手を離した瞬間、それは僕の視界から消えうせた。残ったのは、ただいつもと同じまどろんだ景色。かったるくて、やる気無い、惰性の滲むお決まりコースの風景だ。
 春は始まったばかりで、僕の苦難の日々も始まったばかりな予感。
 朝も始まったばかりで、ベッドが僕を呼んでいる。据え膳喰わぬはなんとやら。心なしか冷たくなったベッドに、湯たんぽがわりにレオを押し込めて、僕も潜りこむ。二度寝程幸せで背徳的なことはないよな……、僕は血のついた顔でカーテンの熊に笑みを送る。
 布団に潜っても、舐めるような視線、否、光線を感じる。固くまぶたを閉じるけれども、どれだけしたってその上から光は白く突き刺さる。もう何も見たくないのに眼は無意識のうちに情報収集をして鬱陶しいことこの上なし。全く、さっきの蝶々みたいに分解してほしくなる。僕は痛くないコースを希望するけど。
 心底底意地の悪い、眩しい陰湿な嫌がらせの永続。どれだけ逃げたって追ってくる――しつこいストーキング野郎め! 僕はデリケートなんだよ。
 「おいレオ、咬むなよ?」不可解な動きをする彼にそう注意したけれど、華麗にスルーされるという屈辱。
 こうして……レオとベッドを共にしながら、僕の十六度目の春は始まったのだ。なんて素敵な、虚構にうってつけの幕開けだこと。

 流れる沈黙、それはコンクリートのように、冷たく硬い。
 流れる時、それは二つの感情を溶かし混ぜて、全てを混沌の相にする。
 気まずくなどない
 『近くにいる』なんていうのはもともと思い上がった認識なのだから。
 せつなくなどない
 どれだけ肉体が近づいたとしても精神が交わることなどなく、地平線まで 平行線が続くことを、僕は知っているのだから。
 万人に与えられた無限の不可侵自治領。たった一人のテリトリー。
 万人に課せられた不可避の不可侵義務。きっと一人でメランコリー。
 ずっと一人の、
 グルーミールーム。

 咬まれた小指が、まだ痛む。